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■日本初の僧侶は、女性でした。 ■日本初の僧侶は、日本初の留学僧でもありました。 ■日本初の尼僧は、神様に仕える巫女と、同じような感じに捉えられていたようです。 |
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女性の出家者を比丘尼といいます。比丘尼はサンスクリット語のビクシュニーの音写です。男性の出家者はビクシュで比丘と音写します。 したがって尼の文字が、女性の出家者を現すようになりました。しかし、尼の文字は人が二人、たがいにもたれあう形から出発している文字で、元来は男女のことを示す文字です。およそ出家とは正反対の雰囲気を持つ文字です。 ビクシュニーの音写には、必蒭尼、必芻尼、福芻尼、備芻尼、比呼尼、などいろいろな書き方がありますが、いずれも尼の文字が使われています。 尼をアマと読むのは、母とか立派な女性を意味するアンマーという言葉から来ている、あるいは朝鮮語のアミ(牝)から転じたもの、といわれています。
仏教が初めて日本へ伝えられたのは、538年あるいは552年といわれます。仏教を受け入れるか否かで、蘇我氏と物部氏は対立を深めます。 蘇我氏は受け入れ派で、584年、蘇我馬子そがのうまこは手に入れた半跏像の弥勒菩薩を供養するため僧侶をさがします。 しかし当時の日本には、まだ僧侶がおらず、高句麗から来たという元僧侶の恵便えべんという人を戒師として、三人の若い女性が僧侶となることになりました。 この三人の尼僧が、日本で初めての僧侶です。三人は善信尼ぜんしんに禅蔵尼ぜんそうに慧禅尼えぜんにと名乗りました。 善信尼はこの時11歳、と日本書紀に書かれています。残りの二人については年齢が記されていませんが、善信尼の弟子ということなので、ほぼ同じような歳と考えられます。 善信尼は司馬達等しばたつとの娘で、仏師、鞍作止利くらつくりのとりの叔母にあたります。
尼僧になった三人は、蘇我馬子が用意したお堂で、仏様に仕えていましたが、一年後の585年、反対派の物部氏が押しかけ、尼僧を止めさせようと、お堂や仏像を壊し、三人を捕らえて衣を剥ぎ取り、鞭打って監禁しました。 しかし三人の志は篤く、解放されると588年から2年間、本格的な尼僧となるため、百済に留学しました。帰国して桜井寺に入り、まず12人を出家させます。その後多くの尼僧を導き、624年には尼僧が567人になっていた、と伝えられています。 この桜井寺が日本初の尼寺で、ここを本拠地として国分尼寺が建てられると、尼僧は全国へ展開してゆきました。 |
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