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■祇園精舎は、須達多すだったという人が寄付したお寺です。 ■祇園精舎は、お釈迦様が何度も説法を行った場所です。 ■祇園精舎は、竹林精舎とともに二大精舎として知られています。 |
舎衛国に須達多という大富豪がいました。長者と呼ばれるにふさわしく、慈悲深い人でした。生活に困っている人や、孤独な人をみつけると、おしみなく援助をするので、給孤独と呼ばれていました。 須達多は、お釈迦様に舎衛国で説法をしてもらうため、舎衛国内に修行者たちが住む場所=精舎を作ることにしました。 精舎は、修行に精錬する者のいる舎の意味で、寺の始まりです。この時代の寺は修行者たちの居住する場所であり、現在のような仏様をまつる寺ではありません。
精舎を建てるに良い土地を見つけました。平坦で樹木が生い茂り、町から遠くも近くもない場所です。その土地は、祇陀太子ぎだたいしが所有していました。 祇陀太子に土地を譲ってくれるように交渉すると、「私はお金に不自由していない。また、あの土地は私の散歩用の土地なので、売るわけにはいかない」と断りました。再三の申し入れをすると、「それほどまでに欲しいのなら、黄金で土地を隙間無く埋めつくしたら譲っても良い」といいました。 須達多がすぐに了解すると、祇陀太子は「今のは冗談だ」と言って逃げましたが、「一国の太子がうそを言ってはいけません」といって須達多は黄金を運び並べはじめました。 しばらくして若干の空き地が残ったところで、祇陀太子は黄金が尽きたのだと思い須達多に尋ねると、「いえ、黄金か尽きたのではありません。次はどの蔵から運ぼうかと考えているところです」と答えました。 祇陀太子は須達多の熱意に感動し、土地を須達多に譲り、樹木はお釈迦様に寄付しました。そして黄金がたらなかった分の土地に精舎を建てた、といわれています。
祇園は略した呼び方で、祇樹給孤独園ぎじゅぎっこどくおんまたは祇垣阿難邪抵阿藍などと書きます。ジェータヴァナ・アナータピンダダスヤ・アーラーマの音写です。 祇樹は祇陀太子が所有する樹林の意味。 祇園精舎は祇垣精舎、耆陀精舎、逝多林、祇陀林、祇涅林、祇陀園、祇園、祇桓寺などとも呼ばれ、訳すと松林とか勝林となります。 祇園精舎は舎衛城の南にありました。玄奘三蔵法師が訪れたとき(7世紀)には、すでに荒廃していました。 現在の北インド、ウッタル・プラデーシュ州北部にあるサヘート・マヘートの南の遺跡が祇園精舎の跡とされています。 相当大規模なもので、経行処、講堂、温室、食堂、厨房、浴舎、物置、厠、井戸、蓮池、病室、七層の塔、中央には香室(仏殿)があり、周囲に80の小房があったといわれています。
祇園精舎といえば平家物語の「祇園精舎の鐘の声・・・」が有名ですが、祇園精舎に鐘があったかどうか?定かではありません。 この一節は、祇園精舎には、たくさんの房と鐘などがあり、と中天竺舎衛国祇垣寺図経ちゅうてんじくしゃえこくぎおんじずきょうに書かれているところから生まれた、と言われています。 このお経は、道宣=南山大師という中国の僧侶が7世紀に図を見て書いたもので、実際に見たわけではありません。玄奘三蔵法師の記録にあるように、7世紀には荒廃していたのです。 由来、規模、構造、用途など、詳細に書かれていますが、あきらかに中国的な発想の部分があり、鐘については疑問視されています。 |
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