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■三蔵法師といえば西遊記。でも、三蔵法師は固有名詞ではありません。西遊記に登場する僧侶の名は玄奘 げんじょう といいます。 |
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三蔵法師は経、律、論に精通している僧侶に付ける敬称です。ときには三蔵と略される場合もあります。そして三蔵を玄奘の固有名詞的に使うこともあります。 では、経、律、論すべてではなく、どれか一つだけに詳しい僧侶はなんと呼ばれたのでしょう。経師、律師、論師と呼ばれていました。今は使われていません。 僧侶の階級に律師というのがありますが、これとは異なります。 玄奘三蔵法師がここまで有名になったのは、孫悟空の西遊記がかなりの要因でしょう。西遊記は現実とはかなりかけ離れていますが、西遊記が生まれる程、特筆すべき功績を残した僧侶です。 13才のときに僧侶となり玄奘と名乗ります。629年の秋、26才で西安市(昔の長安)からインドへ無許可で出国します。生年と出国の時期については諸説があり、2〜3年程度の幅があります。約16年間ついやしてインド各地をまわり、645年に馬20数頭分の経典や仏具などを持ち帰りました。 主なものは仏舎利150粒、仏像8体、経典657部です。インドから経典を運んだ僧侶はたくさんいます。名前が明確な人だけでも150人程といわれていますが、玄奘三蔵法師は質、量ともに記録的なものです。また旅行中に記録した地理のようすや風俗、天文、数学、医学的な分野のものまで含まれています。 帰国時には皇帝の「太宗」が自ら迎えに出たといわれています。そして国家的な事業として弘福寺、弘法院、大慈恩寺、西明寺、玉華寺などで翻訳作業をしました。玄奘三蔵法師の翻訳方針はそれまでとは異なり、あまり意訳しないところに特徴があるといわれます。 西安市の大慈恩寺には大雁塔が建てられ、ここに完成した翻訳本が納められましたが、唐が滅びてからは、戦乱等で散逸してしまっています。664年2月(63才または65才)「大般若経」翻訳完成の翌年他界します。遺骨の一部は日本にも祀られています。岩槻市の慈恩寺(境内ではなく近くの丘)と薬師寺です。 |
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