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■伝えるためにお経を読む人が経師と呼ばれ・・・ ■写経をする人が経師となり・・・ ■表装する人が経師と呼ばれるように、なりました。 |
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お経は暗記し、代々口伝えするのが基本でした。伝えるためにお経を読む人を経師きょうしといいます。お経の師という意味です。お経を講演する僧侶や、お経を読むのが上手な僧侶を指しました。小乗仏教では口伝を重視して、写経はあまり行われませんでした。 それに対し大乗仏教では写経がよく行われ、特にシルクロード沿いの地域や、中国では版木の使用が本格化するまでは写経が中心でした。写経をする人も経師と呼ばれました。 隋の時代には、写経はほぼ1行17字詰に統一され、巻物形式になります。それまでは1行15字または22字詰で、貝葉経のように裏表に書かれていました。
天平時代の記録に、経師が843人いたこと、673年2月3日一切経の書写をしたこと、などが残されています。この辺が日本での本格的写経のはじめて、のようです。 奈良時代は写経司、後に写経所となる公設の施設があって、写経はそこで行われました。民間でも写経を職業とする人は、経師と呼ばれていました。 作業は、タイトル、本文、絵、表紙作り、罫線引き、校正、表装、筆の修理など、かなり分業化されていました。また、経・律・論のいわゆるお経を扱う所と、注釈書を扱う所に分かれていた時代もあります。
経師になるには書道のテストがありました。一定のレベル以上でないと採用されません。採用されると、制服、食事、書道具、住まいなどが支給され、17,000字につき布一反が支払われました。一反は一着分の生地ですから、数千円〜数万円程度の出来高払い、と言うことになります。 誤字や脱字があると、罰金です。誤字は20字、脱字は5字ごとに公文書用の上質紙1枚、行単位で抜けると、1行抜けるごとに4枚納めなければなりません。校正係りにも罰則はありました。
天平時代は、書写する人を経師または経生きょうしょうと呼んでいました。書生しょしょうという呼び方もあります。平安時代になると公設の写経所は廃止され、経師は僧侶が勤めるようになります。 鎌倉時代には印刷が普及し、表装以外の仕事は消えて、表装する者が経師と呼ばれるようになります。そして、室町時代になると、経師はお経以外の書物や暦、絵も扱うようになります。
現在は、経師=表具師ですが、経師と表具師は縦横の違い、とした時代があります。 経師は書写した紙を連結し、巻物に仕立てる職業で、表具師は襖、障子、屏風など平らな物を扱い、巻物は扱わない職業、と言われていました。 |
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